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歩きゃ奥入瀬三里半
山は富士 湖水は十和田 広い世界に一つづつ 住まば日本 遊ばば十和田 歩きゃ奥入瀬三里半
夏目漱石と肩を並べる明治の人気作家・大町桂月が、初めて訪れた十和田湖・奥入瀬渓流の美しさに驚嘆して詠んだ句である。
日本一の名勝と紹介されたこの地は、以来、訪れる人の絶えることがない。
あれから、90年、「一木加ふべからず、一木除くべからず」とする自然保護の努力が続けられてきた。
おかげで、今日でも、桂月と同じ心象風景に身を置くことができる。
十和田・奥入瀬を愛した大町桂月


大町桂月(おおまちけいげつ)は、夏目漱石・島村抱月と肩を並べる人気作家であったが、生来の酒好きがもとで勤務先の東京博文館をクビになり、どん底の生活を送っていた。そんな桂月を、博文館の「太陽」の編集長をしていた五戸出身の鳥谷部春汀(とやべしゅんてい)が、ふるさと十和田湖の景色を是非見せたいと連れ出した。
画家の平福百穂(ひらふくひゃくすい)とともに十和田湖にやってきた桂月は、初めて見た十和田湖の美しさに、ただただ感嘆するばかり。十和田湖・奥入瀬(おいらせ)の自然は、砂地に水が沁みいるように桂月の心を癒やしたのだった。
この時の感激をしたためた紀行文「奥羽一周記」が明治41年(1908)発行の「太陽」に掲載され、十和田湖・奥入瀬渓流は、初めて全国に紹介されたのである。
その後も桂月は蔦(つた)温泉を足がかりに湖辺や八甲田山中へも足を運び、大正14年(1925)にこよなく愛した蔦温泉で、こよなく愛した酒がもとで没する。失意を癒やしてくれたかの地を一生愛し続け、そこで死ぬことのできた桂月は、この上ない果報者である。
ごくらくにこゆるとうげのひと休み
つたのいで湯にみをばきよめて
桂月辞世の句である。
十和田観光への道


明治44年(1911)、青森県知事武田千代三郎のもとに、桂月の紀行文を読んだという皇太子嘉仁親王(大正天皇)の希望により、十和田湖訪問の打診があった。
さっそく、武田知事は十和田を視察し、地元紙東奥日報に「(中略)十和田の美は自然の侭(まま)になるに在り、一木加ふべからず、一木除くべからず、一石動かすべからず、一石添ふべからざる所に在り…」という、十和田の自然の保護を呼びかけた「十和田保勝論」を発表する。県をあげての観光推進は、翌年、保勝会の発会に至った。
武田知事とともに一緒に自然の保護と観光客誘致に尽力したのが、法奥沢(ほうおくさわ)村(現十和田湖町)の村長小笠原耕一である。
小笠原村長は、明治36年(1903)に、前年の大凶作の救済事業として、焼山から奥入瀬渓流沿いに子(ね)ノ口・休屋(やすみや)に至る幅員4尺(約1.2メートル)の牛馬道を建設した。桂月が散策したのもこの道だったのである。
二人は国立公園設置の気運にいち早く動き、大正14年(1925)には、秋田県側関係者と「十和田国立公園期成会」を結成する。桂月もその趣意書を起草したり、「十和田湖を中心とする国立公園に関する請願」にも筆をとった。
十和田湖畔にたつ高村光太郎作の乙女の像は、国立公園の生みの親となったこの三人を讃えたものである。
自然保護と利水、そして観光


しかし、その請願も簡単には片づかなかった。十和田湖の漁業権の問題、それに潅がいや発電のための利水計画が、自然保護計画とぶつかったためである。
保護派の粘り強い運動により、ようやく昭和11年(1936)に十和田国立公園の誕生をみる。保護を進める内務省、開発を図る農林省の妥協案として、風致保護、潅漑、発電の三者の鼎立(ていりつ)を図った「奥入瀬川河川統水計画」が策定されたのである。
十和田湖から奥入瀬川に観光放流が義務づけられ、季節や昼夜によって水量がコントロールされているのが現在の奥入瀬渓流の姿である。
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三本木フロンティア
不毛の地といわれた三本木原台地。
この荒地をしばしば通る男がいた。
下北ヒバの取引で成功していた安野屋素六こと新渡戸傳(にとべつとう)である。
傳の計画は、奥入瀬川の水を台地の一番高いところまであげ、太平洋に至るまでの大地を潤そうとする壮大なものであった。こうして出来た人工河川は、豊作の願いを込めて「稲生川(いなおいがわ)」と名付けられた。
樹木が一本も育たない一面原野だった大地が、肥沃(ひよく)の大水田地帯に生まれかわったのである。
新渡戸傳の商才


新渡戸傳(つとう)は、父の南部盛岡藩士維民(これたみ)が花巻城縮小の藩議に反対したとの誤解を受けて、下北の川内(かわうち)へ流されたのに同行し、安野屋素六と名を変えて小間物商人をしていた。文政3年(1820)、傳27歳の時である。
五年後父は許されて盛岡に帰るが、傳はそのまま残り、商才を発揮して小間物商から下北のヒバを江戸へ送る「川内の海商」として、名も知られるようになる。
十和田山中の槻(つき)(ケヤキ)を運ぶのに十和田湖から奥入瀬川を輸送ルートに使ったのもこの頃である。当時、十和田湖は信仰の対象として船を浮かべることは禁忌(きんき)とされていたが、大胆にも神事を行ってその禁を解き、輸送の合理化を図ったのである。
この頃には地元の取引だけでなく、八戸湊から江戸へ送り、深川の木場町商人らと取り引きをするなど大きく手を広げ、「十和田の新渡戸」と呼ばれるようになっていった。
天保4年(1833)、傳は、材木商として全国漫遊をし各地の産業を見聞しているが、その時に開墾事業の実地調査、開拓法を研究し、多くの経験者を訪問した。
開拓への自信


天保9年(1838)、45歳で南部盛岡藩士に戻った傳は、その経営手腕を買われて、山奉行、勘定吟味役、勘定奉行を歴任する。その間、各地防風林の整備の強化を手始めに、岩手、志和(しわ)、稗貫(ひえぬき)、和賀(わが)などの新田開発を行い、開拓事業についても自信をつけていった。
嘉永5年(1852)、傳はかねてより期するところのあった三本木原開拓についてようやく藩主に願い上げるが、折悪しくこの時は財政が許さなかった。
安政元年(1854)、南部盛岡藩では新田開発のための「十(じゅ)カ年士(ねんし)」の制度を採用した。この制度は、寛政以後に召し抱えられた藩士の身分と家禄(かろく)を取り上げ、代わりに3分の1を10年間給付し、その間勤め上げた者を再び士分に取り上げる、また新田開発を成功させた者はその分を家禄として与え士分に召し抱えるという、藩財政のいわばリストラ計画だった。そのため、新田開発に乗り出す者が多くなり三本木原開拓の気運が盛り上がった。一度棄却された傳の新田開拓の願書も許可され、「新田御用掛」となって念願の三本木原の開拓に乗り出すことになる。安政2年(1855)、傳62歳の時である。
三本木原開拓


開拓の資金は、盛岡、花巻、宮古、八戸などの各地の68名の同志の加談金に自己資金も合わせて費用とした。
開拓計画の骨子は5点あった。 三本木原から太平洋まで、台地の一番高いところに人工河川を掘り抜き水を上げる。 2千5百町歩(2500ヘクタール)の開田。初めは3千石、次いで1万石。第2上水完成時には10万石とし、15万石までを目指す。小川原湖、下北方面の開拓も進めるという壮大なものであった。
水源は奥入瀬川である。三本木との高低差30メートルを解消し、三本木の一番高いところへ水を送るには2ヶ所のトンネルを貫通させ、さらに陸堰(りくぜき)でつなぐという大工事が必要だった。
隧道工事は困難を極めた。爆薬もない当時、岩盤の状況や山ひだの形状を見て掘るので、トンネルの中は屈曲蛇行してしまう。横穴をつかい、いくつかの工区に分けて掘り進めて、約1メートルの食い違いが出たところもあった。幸い下流側が下がっていたので、大きな問題には至らなかった。
近代都市計画と産業振興


同時に、今日の十和田市の基礎となる碁盤目(ごばんめ)状の町づくりにも着手した。傳の構想を拡大して息子十次郎は、区割と共に街割にすべて用水路を設けて、文化的、衛生的しかも防火にまで配慮した進歩的な街区を形成した。傳と十次郎はその他に瀬戸物、養蚕、鋳物、製革などの産業開発の奨励、寺社の建立、防風林の植林など、三本木原の総合的な開発を進めていった。
中でも、七戸にしかなかった馬のせり市を、三本木にも開設したことは、産業の発展に大きく貢献した。全国から人が集まる「三本木の馬市」は有名になっていったのである。
引き継がれた偉業


傳はその後も、目付兼郡奉行として野辺地戦争を処理。明治2年(1869)には七戸藩家老、大参事として新政府との交渉に当たった。
明治4年(1871)三本木原にて78歳の生涯を閉じるが、その後も開拓事業は孫の七郎に引き継がれていく(子の十次郎はすでに逝去)。
明治17年(1884)共立開墾会社が設けられ、一時中断したために荒れていた稲生川の改修が行われた。明治27年(1894)に三本木開墾株式会社と改称して、稲生川の延長と開田を進めた。その後昭和13年(1938)、事業は国営となって続行され、戦後本格的な開発が再開された。幹線水路延長40キロ、支線水路31キロ、かつての荒れ地には網の目のように水路が走っている。
心配と飯の食い溜めは役に立たぬ


傳は贅沢(ぜいたく)を戒め、節約と忍耐を家訓として、三味線など鳴り物を家に入れると化け物が出ると訓(さと)した。
ある時、駕籠(かご)に乗っているとき弦歌(げんか)の音を聞きながら、駕籠かきがあれは何かと訪ねると「あれは金の逃げていく音だ」と言ったという。
またどんなときでも一度床にはいるとすぐ眠ってしまった。「自分は心配したことがない。心配と飯の食い溜めは役に立たぬものだ」と人に教えていたという。
夜の12時には寝て、朝6時に起床、飯は3杯という生活を崩すことがなかった傳は、一度決心したことはどこまでも実行していく強い意志を持ち、子供にも惰弱(だじゃく)な武士の修行より商家の丁稚(でっち)奉公の方が実(じつ)があると、わざわざ仙台の商家に身分を隠して奉公させている。まさに質実剛健の体現者であり、徹底した前向きの合理主義者であった。
ここにも幕末から明治への大きな転換の時代に新しい時代に向かって一生を掛けた人達がいる。開拓精神に充ちた不撓不屈(ふとうふくつ)の一生であった。
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八甲田のふもと、水の恵み
青森県を東西に二分する八甲田連峰。
八甲田大岳(1584メートル)を主峰とする山々は、東側の南部・下北と西側の津軽に異なる気候と風土をもたらす。
津軽は、有名な豪雪地帯であるが、南部・下北は雪が少なく、代わりに春夏にはヤマセが吹きつける。
八甲田の植生は多様で、森林、花畑、湿原、芝原と何でもそろっている。標高400メートルから上部1000メートルまでを占める樹林は主としてブナである。
八甲田の深いブナ林のもたらす水の恵みは、奥入瀬川、七戸川などを経て、この地をうるおす。
八甲田の存在感


八甲田といえば、新田次郎原作の映画「八甲田山・死の彷徨(ほうこう)」を思い出す。その厳しい寒さと織りなす山並みの深さが印象的である。
白神山地のブナ林は世界遺産に登録されたことから有名になったが、八甲田山のブナ林もそれに劣らない。むしろ、八甲田山には観光道路が入っていたために漏れたという話もある。おかげで私たちは、道路の左右に延々と続くブナ林中をドライブすることができるのである。
深田久弥の名著「日本百名山」の中でその一つに数えられている八甲田山。深田はこの山の特徴を「アオモリトドマツの群と草原」といっている。深い緑のアオモリトドマツとブナ原生林の中に、時折ポッカリと広がる草原は山岳地帯にいることを忘れさせる広さである。
八甲田山とは単一の山ではなく、八甲田大岳(1584メートル)を主峰とする十峰をいただく北八甲田と、櫛ヶ峰(1516メートル)ほか五峰の南八甲田の連山を総称している。
この山々は那須火山帯中に噴出した火山群で、十和田湖は約200万年前の火山活動でできた二重のカルデラ湖として、世界的に知られている。山系の東側、南部・下北地方は冬に雪が少なく、反対に春夏にはヤマセが直撃する。そのため、これまで冷涼向きの畑作物と畜産が主に行われてきたが、耐冷品種の開発普及で上北地域にも水田面積が増えてきている。
天気のよい日には、この辺りではどこからでも八甲田の山並みがくっきりと見え、シンボルとなっている。
八甲田のおいしい水と酒づくり


八甲田山系は、東に流れる七戸川、奥入瀬川、北へ荒川、駒込川、西へ浅瀬石川等、多くの川の水源でもある。標高400メートルから1000メートルにかけては、ブナ、カツラ、カエデなどが広がる。
かつての伐採を目的とした森林資源から、現在では原生林に近い景観、水源涵養(かんよう)機能、動植物生態系の保全など、山全体が重要な資源との認識が高まっている。
日本の水はうまいと一般に言われているが、緑濃い森と豊かな降雨量がその源泉だ。都会では、ペットボトル入りのミネラルウォーターが流行っているが、天然のおいしい水に恵まれたこの地には、そんなものは必要なさそうだ。
十和田湖町では、この八甲田の伏流水が湧き出る奥入瀬渓流沿いの水源を利用して「奥入瀬源流水」と名付けた水を販売している。厚生省のおいしい水26項目をすべてクリアしているという。奥入瀬湧水館では、ボトル詰めの様子を実際に目で見られるのも楽しい。
水の豊富なところには、造り酒屋が多い。もちろんこの地域にも、八甲田山系の伏流水を利用している造り酒屋がある。
ビールの製造には水質は関係ないというが、それに比べると、日本酒はデリケートで、水に含まれる微妙なミネラルが、麹(こうじ)の活動に大きく影響するという。酒造りには微妙に異なるミネラルを含む水が、その地域独特の滋味、香気あふれる妙味になる奥深い世界がある。
旧百石町(現おいらせ町)では、村井松三郎が、百川(ももかわ)といわれた地酒を銘酒桃川に育てた。品質を追い求め、戦中から戦後にかけて原料不足から薄い酒が出回っていた時代にも、原料を吟味し品質を重んじたことから信用を得て、大きく発展したという。
ここでは12月以外は工場見学ができる。工場内外の行き届いた清潔感に、酒造りには当たり前のことでも、ものづくりの伝統と洗練された美意識を感じる。
他にも十和田市の鳩正宗、旧十和田湖町(現十和田市)の十和田湖ほまれ、奥入瀬しぶき、七戸町の十和田正宗、駒泉、下田町(現おいらせ町)の氣比(けひ)の里など、八甲田の伏流水と周辺地域産の米で作った地酒には、大量生産にはない地元中心の根強い人気がある。
奥入瀬川の清流を守る


奥入瀬川の水は、水力発電や農業用水としても利用されている。三本木原台地を潤す稲生川もその一つである。
そのため、本流の水量は決して多くない。また近年では、流域の市街化が進み、水質の低下が問題にもなってきている。
しかし、沿岸の市町では河川公園の整備を行って、土手の桜の木を植える事業を始めた。その他にも、川の周辺では、土手に菜の花を咲かせる、ホタルを呼び戻す、赤トンボの群、白鳥の飛来など、川の季節を風景として定着させようという努力もされている。人々にもまたアユ釣りや芋煮会などで、奥入瀬川を楽しもうという動きもでてきた。
奥入瀬渓流の続きにふさわしい奥入瀬川を取り戻そうと、平成8年8月、流域の自治体が立ち上がり、奥入瀬川の清流を守るための協議会を結成した。
水質基準の制定や河川のパトロールを条例化したり、地元の人達による手づくりのイカダレース大会を開催したり、地元に親しまれる川づくりを目指した様々な活動が続けれている。
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