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ミステリアス下北
今から一万年ほど前、北海道と青森が分かれて津軽海峡が生まれたのだが、海峡を初めてわたってきた旧石器時代の人々のことは、あまりわかっていない。
しかし、縄文時代後期の約五千年前頃には、青森の地に、想像を越えた大集落が形成されていたことが三内丸山遺跡の発掘からわかった。
こうした歴史の流れから、この地には、史実とロマンの境界が判然としない多くの物語がある。
死の世界との接点、恐山。ヒバの埋没林の香り、恐山の下に眠る金鉱脈など、ミステリーとロマンに満ち満ちた下北は、私たちを引きつけてやまない。
恐山、魂の降りる山


下北のミステリアスなイメージの核は、なんといっても恐山。その名前と風景、そして亡くなった人の言葉を伝える霊媒イタコの口寄せ。
宇曽利山(うそりやま)(アイヌ語で「恐れ」は「ウショロ」)とも呼ばれる恐山に、一歩踏み入れると、周辺に立ちこめる蒸気と硫黄の臭気が、鼻を突く。草木の生えない岩だらけの殺伐とした風景。百三十六もの地獄、三途の川、賽(さい)の河原、名もない多くの石地蔵や水子(みずこ)供養の石積み、宇曽利山湖のエメラルドグリーン、白い極楽ヶ浜に点々とする赤い風車とカラスの群…。訪れた人は映画のセットでも真似のできない「地獄」を体験するのである。
夏の例大祭(7月20日から24日)と秋詣り(10月9日から11日)にお詣りすれば、亡くなった人の苦難を救うと伝えられている。正式名称は恐山菩提寺。高野山、比叡山とともに日本三大霊場の一つに数えられる。管理をむつ市にある曹洞州吉祥山円通寺が行っている。本尊は延命地蔵菩薩。
貞観(じょうかん)4年(862)、慈覚(じかく)大師円仁(えんにん)が夢のお告げでこの地を発見して以来天台宗の修験場として栄えたが、室町中期に蛎崎蔵人(かきざきくらんど)と南部藩との戦乱に巻き込まれて寺を全壊、一時恐山信仰が途絶えるが、享禄3年(1530)、円通寺開山聚覚(しゅうがく)が菩提寺を再興し、現在に至っている。
恐山は「恐ろしい山」ではなく「畏れる山」の意味だ。ここでは、死んだ人とのふれあいを求めて、死と対話する。自分の死を恐れるというより、人の死を畏れ敬い供養することが、生きることの証であり、来世へ道筋を開く自然な行為となってきた。
イタコの口寄せ


イタコとは、招魂(しょうこん、魂の呼び寄せ)、霊媒を業とする盲目あるいは半盲目の女性達のことである。アイヌ語のイタク(語る)に愛称である「コ」をつけたとも、イタコがはじめに板に名前を書き記してから口寄せを始めたからともいわれる。外国にも日本全国にも霊媒師と呼ばれる人たちはいるが、青森県には特に多いという。
また、ゴミソという人もいる。神託をうかがって諸悪、災害の原因を探りあて、除災招福を祈祷(きとう)する人で、イタコと異なるのはその資格に性別、年齢、盲目であるかどうかは問われないということだ。神仏の霊が乗り移る霊感を持つ人であることは同じである。
イタコになるためには、イタコに弟子入りして厳しい修行を積まなければならない。イタコが行う巫業の内容は、死霊を呼び出して語らせる「口寄せ」である。普通は自宅で行うが、町の信者の集まりに招かれて行うこともある。また寺社の祭礼日などに出かけて行うこともあり、これをイタコマチという。恐山の大祭でのイタコマチが、一躍イタコを有名にした。
七月に行われる恐山大祭は、死者供養のために訪れる人でたいへんなにぎわいである。下北一円では、「死ねば恐山に行ぐ」と信じられているので、死者の出た家では三年以内に必ず歯骨を恐山に納めるという風習が残っている。
恐山の大祭では、地蔵堂の境内にイタコのキャンプが並ぶ。参拝者達はそれぞれにイタコのテントの前に並んで順番を待つ。番が回ってくると、亡くなった身内の仏を降ろしてもらい、イタコの口を通して語られる霊の言葉に、老若男女がハラハラと涙を流して聞き入り、そばにいる人達もまた、もらい泣きする。
ここでは誰に遠慮することなく、死者の言葉に耳を傾け、思う存分涙することが出来る。恐山は、魂の降りる山、魂と魂の対話の場である。
そのイタコのなり手も年々少なくなっているという。
宇曽利山湖のウグイ −−強酸性湖に棲む驚異


恐山にある宇曽利山湖、ここはPH3.2〜3.8という強酸性の湖である。その湖にウグイが昔から生息している。地元の人にとっては、こんな硫黄臭いところによく棲んでいるなという程度にしか見られなかったウグイ。ひと昔前までは、六月になると群をなして川をのぼったという。川底はそのために真っ黒になり、いくらでも手づかみできる状態だったそうだ。卵の産み付けられた川底はヌルヌルとして歩けなかったとも言う。
そのウグイを食べた人もいた。料理の仕方さえきちんとしていれば、なかなかいいもんだという。硫黄臭を除くために塩でもんでヌメリをとり、乾燥させる。出し汁や甘露煮あるいはそのまま食べてもうまいもんだと。但し食べ過ぎるとゲップが出る。それがまた硫黄臭い…。
最近このウグイの腹に寄生虫がいることが判明した。水槽で飼育していると太鼓腹のようになって動きが悪くなるそうだ。ウドンのような角ひも状の虫が三つ折りになってとりついているという。
さらに、このウグイは水銀を体内に蓄積していることも解った。
宇曽利山湖のウグイは強〜い。この強さは、何故、いつ頃、どうやって身についたのか。
寛政4年(1792)菅江真澄(すがえますみ)の紀行文「牧の冬枯」に書かれているのが、最初の宇曽利山湖のウグイの記録らしい。
この不思議な魚ウグイの秘密を探るために、いろんな人が研究をしている。普通のウグイを強酸性の水に入れると死んでしまうとか、宇曽利湖のウグイでも卵や稚魚はこの湖では溶けてしまって生きていけないとか、遺伝ではないかとか。昭和48年には益子帰来也という人が、普通のウグイには見られない特殊な配列をした細胞を発見している。
それでもこの不思議なウグイの謎は、解けていない。疑問が尽きないウグイなのである。
確かなことは、かつてよりも大幅にその数が減っていることである。一時の乱獲は防げているはずにも関わらず、いっこうに増えてこないという。この不思議なウグイの研究のためにも、またもっと不思議を提供してくれるかも知れない謎に充ちた愛すべきウグイを、是非とも後世に残していきたいものである。
地下に眠る金鉱


平成4年、霊の山・恐山に、またひとつ驚くべき事実が分かった。
4月21日付の朝日新聞によると、「国内外で鉱物資源を探査している金属鉱業事業団が、霊場で有名な恐山の北部にある薬研(やげん)地区の地表調査で、有望な金鉱床を確認した」というのである。
金属鉱業事業団によると、この地区で確認された鉱床の金の含有量は1トンあたり16グラム程度。「今後、地中の深い部分を本格調査すれば、より高品質の鉱床に発展する可能性もある」とのことだ。
この話には、まだ続きがある。そもそも金鉱床が見つかったきっかけは、昭和62年に工業技術院の研究者が、恐山で鉱石1トンあたり6千グラムという異常に高い品位の金鉱石を発見したが、国定公園に指定されている恐山では鉱山の事業化が出来ないため、周辺を探した結果だという。
いわば、薬研地区は身代わり、本命は恐山である。恐山の地下に眠る巨大な金鉱脈…。霊場内にある金堀地獄はその名残なのか。また一つ、ミステリーが加わった。
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斗南藩の夢と希望
明治以降の下北は、斗南藩を抜きには語れない。
朝敵の汚名を着せられ会津藩士一万数千人が、再生の夢を抱いて会津(今の福島県)から陸路・海路を経て、下北の地にたどり着いたのは、明治3年(1870)のことであった。
それから藩の消滅までわずか一年あまり。
この間の過酷な暮らし、藩士たちの夢、暖かく迎えた地元の人たち…。歴史に翻弄されながらも、失われることのなかった硬質の精神。
短期間に凝縮された斗南藩再生の夢、情熱、反骨の遺産は、有形・無形に今に残る。
会津から下北へ−−北斗以南皆帝州−−


明治維新の戦いで思いもかけず朝敵の汚名を受け、しかも奥羽越列藩同盟も総崩れとなる中で最後まで徹底抗戦した会津藩。その攻防は、白虎隊の飯盛山(いいもりやま)の自刃など多くの悲話で語られてきた。
しかし、悲劇はこれでは終わらなかったのである。
明治元年(1868)鶴ヶ城落城の後、会津藩23万石は没収滅藩となり、藩主松平容保(かたもり)は隠居謹慎、養子の喜徳(よしのり)(徳川慶喜の弟)とともに東京へ送られる。
明治二年(一八六九)十一月旧会津藩は斗南藩となって待望の再興を果たす。表高三万石、藩主はその年の六月に生まれたばかりの容保の子松平容大(かたはる)であった。
「斗南」は中国の詩文「北斗以南皆帝州」から採ったといわれ、北の辺境であってもここも天皇の国にかわりはないとする忠誠心と、やむにやまれぬ望郷の想いがうかがわれる。
領地は、かつての南部藩領の一部。下北半島全域と、七戸藩の向こうの跳び地から成る変則的なもので、三万石とは名ばかり、実際には七千石がせいぜいの農耕には適さない土地であった。
幼い藩主は重臣の懐に抱かれて会津から臨時の藩庁五戸(ごのへ)へ入り、そこから明治4年(1871)2月に藩庁田名部(たなぶ)の仮館(かりやかた)円通寺に移ったのである。
これに先だって明治3年(1870)5月2日、先発の旧会津藩士三百人が田名部に到着する。この日、田名部では各戸に軒提灯を吊して歓迎したという。田名部はすでに下北ヒバの荷出港としてさまざまな人や物が出入りする町になっていた。同年6月9日、千五百名が新潟から海路を蒸気船で出発し、10日夜大湊(おおみなと)大平浦に上陸した。その後秋にかけて品川から野辺地、八戸へ上陸したり、会津から陸路をとるなどで合計4千5百戸、17,327人が新生の夢を抱いてこの地に移動してきたのである。
開墾する武士たち


幼い藩知事に代わって実質的な藩政を担ったのは山川浩権大参事(ごんのだいさんじ)、25歳だった。それに少参廣澤安任(ひろさわやすとう)40歳、同永岡久茂30歳、他の役人を合わせて70人ばかりの人員が藩政を司ることになった。
まず藩士とその家族に協力の呼びかけを行う。「にわかに小藩となって分配米はどうしても足りない。自らが家産を立て農商の民になろう」と。助産米の交付、藩庁役職の世襲制の廃止、身寄りのない人、病人、未亡人は親類や知人などで助け合うことなど、旧来の制度は全て廃止し、「上下一緒に進むほかに生きる道はない」と説いた。新天地は崖っぷち同然の状況にあった。
城が落ちて追われるように出てきた藩士達は、今で言う難民状態である。何も持っていない。当面の生活は、政府からの救助米に依存するがそれも一人一日米三合だけ、他には何もない。住まいは各地の寺や農家に分散しているが、元々富裕の地でない上に一軒の農家に数人が居候するのである。地元の農家にとっても、たいへんなことだった。
政府の援助金で早急に住まいを確保し、開拓に乗り出さなければならない。山川らは下北の山野を駆けめぐり、斗南ヶ丘と松ヶ丘を市街地建設の地と定めた。何とか取り付けた政府からの救助金で、掘立小屋に近いものではあったが住居が出来た。農家に居候の身から解放された藩士家族達は喜んだ。三本木、五戸、三戸にも住まいが建てられたが、それでも大半は住む家のない状況が続いた。
少ない米の補充に山野の蕨(わらび)や葛(くず)の根を掘り起こして澱粉をとった。昆布、若布などの海藻を拾って押布にして食いつないだのである。栄養失調者が続出し、衣類も厳寒時にさえ夏物の単衣を重ねてしのぐ有様だった。その頃の狂歌に
斗南藩 三合扶持(ぶち)が足らぬとて
炊かぬ前から釜臥(かまぶせ)の山
というのがある。毎日の食料にこと欠く有様だった。
意地と反骨


「ならぬものはなりませぬ」という会津藩校・日新館(にっしんかん)の教育が、かろうじて藩士達の誇りを支えた。後に陸軍大将となった柴五郎が移ってきたのは12歳頃。ことある毎に「ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪(そそ)ぐまでは戦場なるぞ」と父に叱責されたと記している。
その著「ある明治人の記録」によれば、「建具あれど畳なく、障子あれど張るべき紙なし。板敷きには蓆(むしろ)を敷き、骨ばかりなる障子には米俵等を藁縄(わらなわ)にて縛り付け戸障子の代用とし…炉端にありても氷点下十度十五度なり。炊きたる粥も石のごとく凍り、これを解かして啜(すす)る。幼き余は冬期間四十日ほど熱病に罹りたるも、褥(しとね)なければ米俵にもぐりて苦しめらる」とある。悲惨な体験は、骨の髄まで染みついた。
後に西郷隆盛が自刃し、大久保利通が襲撃されたとき、「両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なりと喜べり」と記した柴五郎は、七十五歳になってもそのときの気持ちを「いまなお咎(とが)むる気なし」と言い放っている。
新しい国づくり


逆境にさいなまれ困難な生活を強いられても希望を捨てなかったのが、斗南藩士であり、文字通りの「新しい国づくり」― 下北振興にかけた藩士たちの卓見と奮闘は、今なお精彩を放っている。
山川らが作った斗南藩施政の眼目は二つあった。
ひとつは大湊の開港。安渡と大平を合併して大湊を東北における長崎と位置づけ、北日本の開港場として海外貿易の拠点とすることだった。函館が開港されたときの賑わいを廣澤は若い頃に見ていたのである。
二つ目は産業振興である。会津藩23万石から3万石にまで減封されたその差を埋め合わすだけの産業開発をしなければならなかった。
藩士には開墾と養蚕を奨励、藍(あい)、茶、煙草、甘藷(かんしょ)、蜜柑の類まで栽培させ、砂鉄を利用して鋳物製造、瓦煉瓦も焼いている。漆器細工、製紙、機織り、畳職などの手工業も奨励した。
開港と産業振興。過酷な暮らしの中でも、かれらの視線は未来に向けられていた。苦しいながらもこの下北の地での新天地開拓に新たな意欲を燃やしたのである。
夢の終わりと新たな苦難


明治4年(1871)7月20日には容保達も函館から佐井、大間、大畑を経て田名部に到着した。
しかし、その十日前、廃藩置県が施行され、藩知事らは東京へ引き上げることが命じられた。8月25日容保・容大親子は田名部を去っていった。その後一月も経たないうちに斗南県は弘前県に合併され、さらに青森県に改められた。歴史に翻弄され続けた斗南藩はその短い歴史を閉じたのである。
主を失い、国を失い、後に残された藩士達はさらに辛酸をなめ尽くす。困窮は女子供の身売りまでに及び、生活の破綻と時代の変容は、多くの藩士をこの地から去らしめることになった。
明治6年(1873)には扶持米の打ち切りと、転業資金の交付があったことでさらに転出に拍車がかかった。田名部に残ったのはおよそ五十戸、若松県(旧会津)に戻った人たちは10,268人とも言われている。斗南に移住した人たちの約6割が会津に戻っていったことになる。
艱難辛苦(かんなんしんく)、過酷な運命、悲劇、皇国中最不幸の民、挙藩流罪、ありとあらゆる悲劇の言葉を負った斗南藩は霧消したが、斗南ヶ丘の開拓は残った人たちで続けられた。
有形無形の遺産


斗南ヶ丘以外の地でも残った旧藩士達がいる。三本木原開拓に携わった人たち、牧場の開発をした廣澤安任、北村豊三、青森新報社を興した小川渉、青森県師範学校長の沖津醇、五戸に私塾中ノ沢塾を開き地元の子弟に漢学を教えた倉沢平治右衛門等があげられる。
東京に出て会津の雪辱を果たそうとした人たちもいる。山川浩は陸軍に入り、西南戦争で多くの会津人と共に戦って、西郷を落とした。その後東京高等師範学校長、女子師範学校長として教育者の養成にあたっている。
永岡久茂は、急進的だった。政府の中枢を握っていた薩長の分裂が進むに連れ、政府転覆を謀る江藤新平の佐賀の乱、前原一誠の萩の乱に呼応して自らもその挙に出ようとした矢先に、密告されて縛につき、その時の傷がもとで獄死してしまう。しかしその死を批判する会津人はいなかったという。
斗南藩士達の遺産とも言うべきものは、下北だけでなく各地に残る。執念にも似た誇り高い精神と共に。
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陸奥湾の恵み
東の下北半島、西の津軽半島に抱かれた陸奥湾。
面積約1,660平方キロ、海岸線総延長約240キロ、平均水深38メートルの本州最北の湾である。
かつてこの湾は、タラ、イワシの豊漁で活気を呈したが、今では全水域がホタテの養殖の場となり、一時は全国一のホタテの水揚げを誇った。
時代は変わっても、この湾は、多くの海の幸をもたらし、生活の糧を与えてくれる。
最近では、静かな海面で誰でも気軽に楽しめる釣りを求めて訪れる人が増えてきた。海辺には、レクリエーションを楽しむ人のためのロッジやオートキャンプ場がある。
ここは、恵みの湾である。
青森の漁業を救ったホタテの養殖


水上勉の「飢餓海峡」のモデルにもなった陸奥湾の漁村では、海から揚がる魚と米だけでは生活が維持できず、明治の初め頃から漁民はみな出稼ぎに出ていた。
明治22年(1889)の記録によれば、2万人が北海道や千島・樺太のニシン漁で働いていたというし、昭和30年代には、捕鯨船の乗組員として遠く南氷洋にまで出かける漁民もいた。
漁民が漁業でメシを食う。そんな当たり前のことが初めて可能になったのは、昭和40年代の初めに始まったホタテの養殖のおかげである。
当時、ホタテの主生産地は北海道であり、青森県のホタテ生産は北海道のわずか三十分の一にすぎなかった。ところが、養殖が開始されるやいなや生産量は飛躍的に増加し、昭和45年(1970)、ついに北海道を抜き、ホタテの生産日本一となる。ホタテの養殖が軌道に乗り始めると、今まで出稼ぎに出ていた人達は続々と戻ってきた。
ごく短期間にホタテ王国を実現できた最大の要因は、効率的な稚貝の生産にあった。それに使われたのが、ごくありふれた玉ねぎの袋だったというから驚きである。それまで陸奥湾全体で百万粒もとれなかった稚貝が、玉ねぎの袋を使うと382億粒の稚貝が生産できるようになったのである。
昭和49年、青森県のホタテの養殖は百億円を突破し、リンゴと並ぶ青森県の主要産業に成長している。
ナマコとヒバの美味しい関係


横浜町の歳末の風物詩であるナマコ漁。毎年12月25日の朝、漁師たちはサイレンを合図にいっせいに網を入れる。ナマコ漁は、資源保護のため三日間しか行なわれない。否が応にも熱が入る。
陸奥湾のナマコ漁が本格的に始まったのは、宝暦13年(1763)、江戸幕府が清国(今の中国)から生糸や絹織物を輸入する代わりに、輸出用の海産物を奨励したことによる。陸奥湾のイリコ(乾燥ナマコ)も俵に詰められ、長崎から輸出された。「長崎俵物」と呼ばれたゆえんでもある。
現在は主に青森市や津軽地方に出荷されている。「柔らかくて美味しい」と評判を得ている横浜産のナマコには秘密がある。
横浜町漁協では、体長10〜20センチのマナマコだけを十キロ入りのヒバ樽に詰めて出荷している。ヒバ独特の香りがナマコとよくマッチするだけでなく、ナマコの水分をヒバが適度に吸収してくれるので、鮮度は2週間も保たれるという。これがポリ容器だと全く吸収しないし、マツ材だと吸収しすぎる。下北特産のヒバ材がちょうどよい加減なのだそうだ。
津軽の人たちが、「ヒバ樽に入ったナマコがないと正月が来た気がしない」と言うほど、今やヒバ樽と横浜ナマコは切っても切れない関係なのである。
本州最北の潮干狩り


むつ市の北西部、大湊湾に細長く突き出だした松の緑濃い芦崎の砂嘴(さし)は、毎年4月下旬の二日だけ、本州最北端の潮干狩り場に変わる。海上自衛隊の敷地内にあるため、普段は入ることができないが、むつ市漁協が主催する潮干狩りの日だけは一般に解放される。
この日が来ると、まだ夜も明けないうちに市内外から大勢が詰めかけ、普段は静かな芦崎は家族連れで一杯になる。まだ冷たい水に手がかじかむのも忘れて、大人も子供もアサリ掘りに熱中、大粒のアサリが見つかるたびに、あちこちで歓声が上がる。
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