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伝説の湖小川原湖
小川原湖はむつ小川原地域を象徴する湖。この地に拡がる湖沼群の代表格である。
全国で11番目の大きさのこの湖は、高瀬川で太平洋につながり、四季折々の海の幸をもたらす。
春には、シラウオが高瀬川を遡上する。魚を待つという意味に由来する「マテ小屋」が河口部に並ぶ。
冬には、結氷をうがってのワカサギ釣り。伝統的な漁法である勇壮な「氷下曳漁(しがびきりょう)」は、この地にしか見られない独特の風物詩である。
湖を囲む3つの町村を潤す、人々の暮らしと切り離せない湖である。
玉代勝世姫(たまよかつよひめ)


大和朝廷が東北との交渉を持ち始めた頃のこと。大化改新(645年)後、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が大和朝廷の実権を掌握しようとしていた。
骨肉相はむ政治抗争の中で、橘中納言道忠(みちただ)は世をはかなみ、妻子をおいて忽然と行方をくらましてしまう。嘆き悲しむ母のために父を探し出そうと、玉代勝世姫姉妹ははるばる東北みちのくへとやってくるが、明神のお告げで二人は別々に父を捜すことになる。
姉は、父の声に導かれさすらったあげく精根尽き果て、六戸古間木山の山間に流れる川の先にある沼に沈み沼の主となってしまう。
この噂を耳にした妹は鶴ヶ崎にたどり着き、父や姉と同じ運命をたどることを予感して、3つの川の合流する漆玉(うるしだま)の淵に飛び込もうとするが、沼の主の鰐鮫(わにざめ)が現れ、妹自身は大蛇になって壮絶な戦いを繰り広げる。あわや力尽きようとした時に父の観音偈(かんのんげ)に救われ、妹もまた沼の主になる。姉妹が主となった沼は姉沼、妹沼(小川原湖)と呼ばれるようになった。
二人の姫の後を追って、道忠婦人と弟がみちのくへとやってくるが、見つけたのは道忠の庵だけで、二人はこの庵を専念寺と名付けて親子の菩提(ぼだい)を弔い、道忠の作った仏像を守りながら二人はこの地で果ててしまう。
専念寺にはその後数代を経たある日盗賊が押し入り、当時の和尚が寺の仏像を背負って逃げたが、沼に入水して死んでしまった。その沼を仏沼と呼び、後にそこからいくつかの仏像が上がったという。そのうちの一体の観音像は専念寺のご本尊となるが、専念寺そのものもまた冷害など村の浮沈と共にその所在を転々としながら、ようやく五戸町に落ち着くことができた。50年ごとの御開帳には、多くの参拝客を集めているという。
伝説は生きている


二度と生きて会うこともなく、見知らぬ東北の地で親子姉妹がそれぞれ別々に亡くなってしまうという一大悲劇が、小川原湖周辺地域に伝説として残されている。
しかし不思議なことに、この物語には悲劇という雰囲気はなく、あるのは登場人物の艱難辛苦(かんなんしんく)の果ての奇跡である。その奇跡が現世の我々衆生(しょうじょう)を救ってくれるという、現世救済への強い希求とも言えるこの伝説は、親子姉妹の厳しくも悲しい別れを柱にして、仏教を中央から遠い地域にまで広めようとしていた一千年以上前の時の政府かあるいは仏教の関係者が作り出した話なのかもしれない。
過酷な自然と闘う中で、いつも変わらぬ水面を湛(たた)える小川原湖に、悲しみを突き抜けた姿の玉代勝世姫観音の姿を重ね、50年ごとの御開帳はかつての大飢饉の発生周期にも重なって、人々は残された観音像を敬い、綿々と伝説は語り継がれてきた。
玉代勝世姫伝説は生きている。
明日あなたが湖畔に佇む時、時代を超えた玉代勝世姫の姿を思い起こしてみてはどうだろうか。そこでウィンドサーフィンや水上スキーをしている人のなかに、もしかしたら玉代勝世姫の姿を見かけることがあるかもしれない
むつ小川原地域の厳しい状況に果敢に立ち向かいながら、できることのすべてを果たしていく人たちこそ、伝説の継承者である。
地番を持った湖


昭和33年(1958)に小川原(こがわら)沼から小川原(おがわら)湖に名称変更。この年、浦野舘村から上北村へ、町制施行で上北町、平成17年上北町は東北町と合併して東北町となった。「青森県上北郡東北町大字大浦字小川原湖191番」とは小川原湖の登記された地籍である。
小川原湖は、東北町以外に三沢市、六ヶ所村の3市町村に接していながら、東北町に所属している。小川原湖は日本で11番目に大きい湖であるが、なぜ地籍を持つのか、なぜ東北町だけに所属するのか。その謎の根っこはどうも同じようだ。地籍があることのメリットとして、境界争いがない、地方交付税の算定基礎に貢献している、といわれている。
生産量全国有数のシジミ・シラウオ・ワカサギ


小川原湖は縄文期には内海であった。現在でも満潮時には高瀬川を通じて海水が逆流してくる。そのために、ウナギ、シラウオ、クルメサヨリなどが遡上(そじょう)し、ヤマトシジミが生息している。まさに宝沼たる由縁である。
シラウオ、ワカサギは全国一、シジミは三位の漁獲量を誇る。
小川原湖漁協が、全国でも最初のシジミの上場施設「小川原湖地区卸売市場」を開設した。
シジミは一般的には小さいものの代名詞に使われるが、小川原湖でとれるシジミには、これがシジミかと思うほどの大きいものがある。イタリア料理のアサリを使ったボンゴレのように、料理の腕と工夫次第でシジミを楽しめる。
とはいえ、シジミ漁はたいへんな労働。機械採取は漁協の取り決めで禁止されており、ジョレンで湖底をさらってすくい上げる方法しか使えない。舟から大きく身を乗り出して、全身を使って重いジョレンを引き上げる作業は気のあった者同士でないとできないことから、夫婦での漁がほとんどという。
午前中にシジミ漁をして、午後には農作業。忙しいけれど充実した半農半漁の生活がこの地のライフスタイルである。
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縄文人が暮らした湖沼地域
小川原湖のまわりには、大小さまざまな湖沼があり、まとめて小川原湖湖沼群と呼ばれている。日本では、珍しい光景だ。
これらの湖沼の誕生は、1万年以上前の地球の温暖化、4500年前の気温低下の結果であるという。
この太古の昔から、人が暮らしていた証拠が出土している。よほど暮らしやすい地であったに違いない。
また、この地ではオオセッカをはじめとして、湿地に生きる不思議な動植物が多く見られる。
縄文の謎と自然の神秘に満ちた地である。
小川原湖の誕生


小川原湖の誕生は、1万3千年から1万2千年前の地球の温暖化に始まる。氷河が溶け始め、海面の上昇によって小川原湖周辺は海水に満たされ、大きな内湾(現小川原湖の2倍の大きさがあったという)を作ったと考えられている。
周辺の低地をはじめ、上北町駅周辺から七戸町にかけての低地、乙供駅周辺の低地等も小川原湖の海底下にあったということだ。
その後、4500年くらい前から、地球の気温低下が始まるにつれ、海水面の低下と湖周辺の陸化が次第に進み、小川原湖は内陸に閉じこめられ、徐々に淡水化をたどりながら、現在の湖になったという。
現在は、満潮時に高瀬川から流入する海水のため汽水(きすい)湖になっている。
湖がかつて海であったことは、今でも、湖底にカキや二枚貝のような海産の貝が埋もれていることや、湖周辺にたくさんの貝塚があり、そこから多くの海産魚骨や貝殻が発掘されること、ヌマガレイ、海浜植物の生息などが見られることで証明されている。
そして、小川原湖周辺に貝塚が多く見られることは、小川原湖がまだ海だった頃からこのあたりに人が住んでいたということを証明している。
人が住んでいた証


最古の尖底(せんてい)土器とされる隆起(りゅうき)線文土器が、尾駮沼の北六ヶ所村表館(おもてだて)遺跡(約1万年前)で発見された。
これは縄文期(7千年前〜)土器の基本形である平底土器が定着する以前(縄文草創期)に、尖底土器が継続して作られていたことを証明するものだった。 縄文期以前にも人がこの辺りに住んでいたということになるのだろうか。
弥栄平(いやさかたい)遺跡(六ヶ所村)では4千年から3千年前(縄文後期)の頃の石棺墓やかめ棺土器と一緒に20歳前後の女性の骨が発見された。その人骨から復元した女性像のロボットが「縄文美子」と命名されて、六ヶ所村立郷土館に展示され、会話を楽しむ仕掛けになっている。
いずれにしても、まだまだ発見されていないことが数多くあることは確かだ。三内丸山遺跡をはじめ、これまでの定説を大きく覆す発見が次々と現れ、まさに考古学のルネッサンスが始まったということなのかもしれない。縄文の謎、むつ小川原の謎はますます深まっていく。
湿地に生きる


小川原湖周辺一帯にあった湿地帯や湿原は、明治期以降干拓が進み縮小している。
その湿地に、かつては絶滅したと思われていたオオセッカ(特定鳥類)が生息していることが分かり、世界でも貴重な繁殖地となった。
体色は茶系の目立たない色彩で、スズメよりも小さく速い動きのためその姿をゆっくりと見ることができない。愛想のない鳥である。
ヒタキ科の夏鳥で、ウグイスの仲間。ウグイスの仲間というからには鳴き声に期待したいところだが、ピチョピチョと鳴くらしい。聞きようによっては「美女美女」とも聞こえるとか。見渡して美女が居るからそう鳴くのか、居ないからなのかオオセッカに訊ねてみたい。
その他にも稀産種(きさんしゅ)コジュリンも生息しているという。
季節移動する鳥よりも、やはり動かない植物の方がけなげだ。
オオセッカやコジュリンの生息する仏沼は2005年「国指定仏沼鳥獣保護区特別指定区」とされ、またラムサール条約登録湿地となった。
小川原湖の汽水性の植物群落、淡水の市柳沼、田面木沼にはフジマリモが生息、二又川流域にリュウキンカの群生、新納屋(しんなや)地区には本州の平地としては唯一ワタスゲの群落など、好運だったら貴重な種類をみることができる。
この他にもヤチハンノキ、ヤチダモ等の湿原に代表される灌木の下にノハナショウブ、ニッコウキスゲ、ミソハギ、タチギボウシなどの湿生植物の群落が、春から夏にかけてそこかしこにみられる。
湿地は干潟と同じく、人間の手が入りやすい自然形態である。一見原始的な風情に似ず、人間生活に大きく影響される繊細さを持っている。湿地がどのように残されているのか、その地域の全体的な進展を図る物差しでもある。
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「アメリカのあるまち」
今から60年前。軍歌が盛んに歌われるようになった頃、三沢村議会は淋代平の村有地を海軍飛行場用地として売却することを議決。この日から、三沢飛行場の歴史が始まった。
昭和20年、敗戦とともに、米軍の進駐、米軍三沢基地へと変貌する。アメリカから持ち込まれる豊富な物資、西洋文明。コーラ、チョコレート、クリスマス。
あれから半世紀を越えるアメリカとの交流は、すっかり市民生活に根づき、毎年6月の「アメリカンデー」は、市民総出のビッグイベントとなっている。
三沢は、アメリカのあるまちである。
海軍飛行場から米軍基地へ再生


昭和13年(1938)10月、三沢村議会は淋代平の村有地461ヘクタールを海軍の飛行場用地として売却することを議決した。この時から、基地のまち三沢の歴史が始まった。前年には日中戦争が勃発し、風雲急を告げる時代のことである。
昭和14年(1939)から始まった工事は、3年後に三沢海軍飛行場として完成した。1400メートル滑走路2本と1540メートル滑走路一本が三角形に配置され、兵舎の収容能力は5900人だった。当時の三沢村の人口は7500人余り。基地の周辺にはほとんど民家もなく、村人はとてつもないものができたという感じを抱いたにちがいない。
しかし、戦況は緒戦の華々しさとは裏腹に、次第に悪化。昭和20年(1945)、三沢は米軍機の空襲にさらされ、飛行場も昭和20年7月14日と8月9、10日の空襲を受け壊滅的な打撃をこうむった。
その5日後に終戦。1ヶ月余り後に進駐軍が三沢に到着。桜町に司令部が置かれ、まもなく三沢飛行場は米軍の航空基地となることが決まり、基地の建設が急ピッチで始まった。
建設に当たっては技術者や作業員が全国から集められ、古間木(三沢)駅は、基地づくりに集まった男たちであふれ返ったという。動員人数は1日平均2000人、最盛期の昭和22年(1947)には1万人にも達し、1日3交替、昼夜兼行の突貫工事によって、米軍三沢基地は昭和23年末に完成する。 延べ280万人、14億円を投じるという大工事だったが、地元の人にはあれよあれよという間だったという。
民間機の乗り入れ


昭和27年(1952)、三沢は新たな時代を迎えた。これまで米軍の利用にまかされていた三沢飛行場でも、民間航空の使用が開始されることになったのだ。
日本航空がダグラスDC4型機で、東京〜三沢〜札幌を開設。同29年(1954)には、日ペリ航空(現・全日空)が、東京〜札幌間の寄港地として使用を開始した(同40年中止)。
三沢空港にジェット機が就航したのは昭和50年(1975)からである。東亜国内航空(現在日本航空)のダグラスDC9型機が東京〜三沢、三沢〜千歳間を結んだ。
現在は、東京便3往復、大阪便1往復が発着する県南の空の玄関口として、地域の発展に貢献している。
三沢に根づいたアメリカ文化


戦後の三沢市は、米軍基地とともに発展した。
明治27年(1894)の東北本線開通、昭和26年(1951)の十和田観光電鉄の電化によって古間木駅(現三沢駅)周辺がにぎわったが、やがて昭和30年代になると、米軍や自衛隊基地の整備が進む岡三沢地区に中心が移った。同時に、三沢市は基地のまちとして、米国との新しい関係を模索することになる。
基地の周辺には、米軍関係者相手の商業が発達した。飲食店や洋品店の看板に書かれた英語は日常的な景色となり、気さくなアメリカンの雰囲気が漂う一画が生まれた。国内では三沢でしか味わえないアメリカ仕込みのピザやステーキ、フランス料理の店もできた。
コーラ、チョコレート、バーベキュー…アメリカの豊かな物資、おそらく30年は先行していたであろう生活水準、陽気で大らかな気質、キリスト教に根ざした慈善福祉活動などを目の当たりにして、三沢の住民は大いなる洗礼を受けたことは事実である。
クリスマスもそのひとつだ。今では日本人にもおなじみのクリスマスであるが、いち早く洗礼を受けた三沢のクリスマスはひと味ちがう。
基地のゲート前の広場には、大きなクリスマスツリーが飾られ、アーケード街通りもツリーやイルミネーション一色となり、クリスマスらしい華やいだ街並みに変身する。毎年ツリーのコンテストも行われ、都会の豪華なデコレーションとは比較にはならないが、何ともほほえましい光景を見ることができる。
間違いなく、三沢には他の基地のまちとは違う雰囲気がある。何か喉に引っかかったような、半ばあきらめた気分のようなものがない。どこか家庭的なものすら感じさせるのである。それは、長い東北の歴史の中で「飢餓」という命がけの緊張と対峙してきたことを思えば、何事も越えることはたやすいこと、というおおらかさから来ているのかもしれない。
草の根の日米交流も、いつか大草原に


三沢市では、ミス・ビードル号による世界初の太平洋無着陸横断飛行50周年を記念して、昭和56年(1981)、到着地ワシントン州ウェナッチ市と姉妹都市を締結し、本格的な国際交流への第一歩を踏み出した。
毎年4月に開かれるジャパンデーは、基地内で書道や茶道など日本文化を紹介するもので、市民レベルの国際交流が活発に行われている。
この返礼として毎年6月に行われるアメリカンデーは米軍三沢基地が全面的に協力する日米交流のビッグイベント。毎年恒例のアメリカンパレードは、基地内のアメリカ人がカウボーイやインディアン等に扮してパレード、市内各所では、踊りや音楽、スポーツの親善試合が行われている。
三沢市では、日本にいてアメリカの大学に留学することができる。基地内留学である。メリーランド大学、オクラホマ大・大学院など四つの大学があり、平成2年からは日本人にも門戸が開放された。「入学できても卒業が難しい」といわれる本国並みのカリキュラムがそのまま導入され、無事卒業のあかつきには、当然本物の卒業証書が手に入る。これからの国際交流を担う多くの人材がここから巣立つことも夢ではない。
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日本中央の碑
むつ小川原地域に伝わる伝説の中でも、もっとも具体性を持ち、かつその信憑性についてあれこれ説があるのが、坂上田村麻呂に由来する「日本中央の碑」である。
東北町には、歌枕「つぼのいしぶみ」と同じ石文集落、坪集落があり、伝説の地に間違いないとする論拠となっている。
一方では、田村麻呂は陸奥まで遠征していないと言われる。
いずれにしても不思議に満ちたロマンであることに違いない。
辺境への憧れの象徴「つぼのいしぶみ」


「日本中央」と穿(うが)たれた文字が読める石碑が発見されたのは、昭和24年(1949)6月21日、東北町(当時甲地村)の石文(いしぶみ)集落近くの赤川上流だった。これが、12世紀後半に編まれた歌学書「袖中抄(しゅうちゅうしょう)」で顕昭(けんしょう)の解説するところの歌枕「つぼのいしぶみ」そのものであるかどうかということで、議論が沸騰した。
いしぶみや けふ(京)のせはぬの(狭布) はつはつに あひみてもなを あかぬけさかな 顕昭法師
そもそも顕昭によれば「つぼのいしぶみ」とは、「陸奥の日本の果てのつぼというところに碑があり、それは坂上田村麻呂が都母(つも(つぼ))・津軽の蝦夷を討った征夷の時に、矢の尻で日本中央と書き記した」ものだとしている。このことから「つぼのいしぶみ」は有名になり、西行や頼朝等多くの歌人にロマンあふれる思いで詠まれ、古川古松軒、菅江真澄らも碑を訪ねて紀行文を記している。
都母は文室綿麻呂が征圧した?


実際には東北の陸奥まで田村麻呂は遠征していないと言う。後の弘仁2年(811)文室綿麻呂が征夷将軍となって青森県南部・岩手県北部を征圧にやってくるが、その時に青森の伊加古(いかこ)と敵対関係にあった村の俘囚(ふしゅう)(首長)が、「都母(つも(つぼ))村(後世の上北郡)に集結している伊加古が我々を討とうとしているので、兵粮を借りて官軍の先頭を切って討ちたい」と申し出てきた。その結果、都母村も征圧された。村とは言え、古代蝦夷が営んでいたかなり広い範囲の政治村落で、首長を戴いて国を形成していたのを、中央政府がこれを「村」と呼んでいただけに過ぎない。史料的にも田村麻呂も綿麻呂も青森県域まで入ったという記録はみられないそうだ。
それでも可能性として都母村に行ったかも知れないのは綿麻呂であった。上記の田村麻呂は綿麻呂と間違われて伝説となったものだという。
壷石踏は交通の難所?


「都母」が上北郡という広い範囲を指すなら、「いしぶみ」とは何なのか。
これについては、さらに別の史料がある。
天正17年(1589)書写の「拾芥抄(しゅうがいしょう)」にある大日本国図の中には、「都河路(つかろ)大国」の区域内に「壺石踏」という地名がある。同図には、キソノカケハシ、サヤノ中山といった交通の難所が多く見られることから、「壺石踏」も同様の場所あるいは土木的な施設ではないかと考える学者もいるのである。つまり「石碑」ではなく、場所か施設だということだ。
「日本中央」は東北地方の別名


また「日本中央」も「ひのもと」という国の存在を言っているという説もある。今の東北地方を指しているのである。天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原城攻めを開始した時、ねねに送った書状に「おたわらの事は、くわんとう、ひのもとまでのおきめに候まま、ほしころしもうしつべく…」という恐ろしいことが書かれている。
つまり、小田原攻めは単に小田原城だけを落とすことではなく、関東からひのもとまでを征圧しようという意図で、完全包囲による干し殺しを命じたという内容なのである。この中の「ひのもと」とは関東以北の地であることがこれで推察できる。
さらに、奥羽、蝦夷と呼ばれる以前は日本書紀によれば、「日高見(ひたかみ)国」という名称を持つ独立国だったらしい。「日高見国」は「ひのもとくに」と詠まれることもあり、「ひのもと」は関東以北の東北地方を指していた。
「ひのもと」は一般的ではないにしろ、戦国時代になっても言葉だけは生きていたようである。
竹内古文書の謎


謎めいている点でこれに勝る話が近隣にある。
キリストの墓が、日本の、東北地方の、新郷村にあるという、奇想天外の話である。
キリストがゴルゴダの丘で十字架に張り付けられ処刑されたというのは間違いで、実はそれは弟のイスキリという人だった。キリストは無事逃れて日本に渡来し、新郷村に住み、生涯をそこで閉じたというのである。昭和10年(1935)に、茨城県北茨城市の竹内家から、キリストがこの村に住んでいたと記された古文書が発見され、当時の村長の案内で墓が見つかったと発表されて以来、不思議が続々発見される。
その遺体を埋めた土饅頭型の墓がある。ユダヤの王ダビデと同じ星形の紋章を家紋にしている家がある。子供が、生まれて初めて戸外に出るときは、その額に墨で十字架を書く。しびれて立てないときは、ツバで3回十字架を額に書くと治る。村の盆踊りに歌われる「ナニャドヤラ ナニャドラサレノ ナニャドヤラ」という言葉は、ヘブライ語に約すと「御前に聖名を讃えん」という意味になるそうだ。
この新郷村にはピラミッドもあると、同じく竹内家の古文書に記されている。エジプトのそれよりも古いもので7基存在するという。石を積み上げたものではなく、三角錐の形をした山々、十和利(とわり)山がそれだという。さらに大石神ピラミッドもあり、太陽神の礼拝所だったという。その頂上に太陽石を置いて、周囲には盤鏡列石を配し、鏡石は周囲12メートル、岩の割れ目が東西方向を正確に示し、南北を示す巨岩があるという。
これらのピラミッドが何故ここに造られたのか、だれが造ったのか竹内古文書は伝えていない。
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