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三沢で育った昭和のマルチタレント
その時代の空気の体現者


寺山修司の名を聞いて、懐かしくもほろ苦い青春時代の断片を思い出す人も多いだろう。
歌人、詩人、作詞家、小説家、劇団主宰者、演出家、映画プロデューサー、競走馬馬主等々。まさに時代の生んだマルチタレントの人であった。
昭和42年いわゆる60年代後半、日本の国がいさなぎ景気と名づけられた高度経済成長期に入ろうとしていた頃、31歳の時に書いた寺山の評論集「書を捨てよ、町へ出よう」は、新しい時代の気分を捉え、ベストセラーとなった。若者の心を揺るがす刺激的なタイトルは、4年後に自ら監督して同名の映画が作られ、サンレモ音楽祭グランプリを受賞した。
昭和42年に、当時はグラフィックデザイナーを称していた横尾忠則らと演劇実験室「天井桟敷」を設立する。旗揚げ公演は「青森県のせむし男」だった。都会派に憧れたあげくの果てに、青森へのこだわりは、この頃に吹っ切れたという。
寺山の感覚は、鋭くシャープな言葉となって現れた。
自分の誕生から死についてさえ「昭和10年12月10日 僕は不完全な死体として生まれ 何十年かかかって 完全な死体となるのである」という具合である。
そして、彼は47年をかけて「完全な死体」となった。絶筆となったエッセイのタイトルは「墓場まで何マイル?」
アメリカ文化との出会い


作家寺山修司が三沢で暮らした期間は短い。終戦からの4年間、古間木小(4〜6年)、古間木中(1年)に通っていた時期だけである。しかし、寺山が三沢に格別の思い入れを持っていたことは、多くの関係者が認めるところである。三沢での4年間の体験が、いかに強烈なインパクトを与えたかを残された作品からうかがい知ることができる。
寺山は母子家庭で育った。父は寺山が5歳の時出征し、そのまま戦死したのである。青森市の家を空襲で焼かれた寺山母子は、三沢にいる父の兄が経営する寺山食堂の二階に間借りすることになった。
進駐軍が三沢にやって来た。アメリカ兵に関する「情報」は恐ろしいものばかりだった。進駐してくる山猫部隊というのは、最前線で戦ってきた猛者達。何をしでかすかわかったものではない。「疎開できるものは、他所に移ること。女は化粧もせず、モンペかズボンを着用すること」という回覧板が回り、一層不安を募らせた。
そんな中、寺山は一人この日を心待ちにしていたと、後年記している。三沢での生活が単調すぎてつまらなかったので、アメリカ兵によって新しい局面が開かれることを期待したのだった。終戦後の混乱、そして洪水のように押し寄せるアメリカ文化は、寺山少年を満足させるに十分であった。
小学校時代の成績は体育以外はオール優。「秀才以上のものだ」と先生もあきれるほどだった。「勉強しないで、マンガばかり読んでいた」とは、いとこに当たる寺山幸四郎氏の弁。4年生の時には地方紙に小説を連載していたというから、ずいぶんと早熟な少年だったにちがいない。
好奇心の固まり


寺山は、自分の好奇心旺盛な性格は三沢時代に培われたとも述懐している。中学校を抜け出しては見世物小屋に出かけ、曲馬団・女相撲・蛇娘・生首浄瑠璃といった怪物に胸をドキドキさせていたという。
大人になってからも好奇心のかたまりであった寺山は、何にでも興味をもたずにはいられない性分だった。
その後、寺山は母と別れ、青森市で映画館を経営する母方の実家に居候する。青森高校時代は、新聞部、文芸部に在籍。俳句誌「牧羊神」を創刊し、全国の高校生に投稿を呼びかけるなど、活躍の場を全国に広げて行った。
湖畔に立つ記念館


平成9年7月、寺山修司記念館が小川原湖に面した市民の森の一角にオープンした。総合デザインは、天井桟敷館(東京・渋谷)をはじめ、多くの寺山作品に関わってきたデザイナーの粟津潔氏。館内には、演劇「奴婢訓」などで使用された大道具・小道具のオブジェにまじり、11個の木机が置かれている。寺山がこだわったという「引き出し」を開けながら、寺山の足跡がたどれる趣向である。館長はいとこの幸四郎氏が務める。

 
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