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日本初の洋式牧場を開設
乱世を生き抜く才


廣澤安任は、天保元年(1830)、会津藩士の次男として生まれた。おとなしく「泣き虫」だった少年は、小禄の貧しい家ながら厳しい教育を受けて成長し、藩校日新館では優秀な成績を修めた。
嘉永6年(1853)、廣澤23歳の時に黒船が浦賀に来航する。兄とともに出陣した安任は、初めて激動する世界を目の当たりにした。
水戸に遊歴し、乱世にこそ臨機応変に立ち向かえる才があると水戸学の大家・藤田東湖から啓示を受け、発奮して勉学に励むことになったという。その後二十九歳になって、藩の推薦で幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)に学び、舎長職(級長)を務めた。教授の覚えもよく、4年間を実用の学―経済の勉学に励んだ。
その間、ロシアとの国境交渉に随行して函館に渡っている。ここでの外国人との接触が、廣澤の視野を広げ、また往復の際に北奥の地勢をつぶさに観察したことは、後の斗南移住の下地ともなった。
文久2年(1862)12月、藩主松平容保が京都守護職として上洛する際に、函館から戻ったばかりの廣澤は先行して上京するよう命じられる。沿道及び京都近郊諸藩の動静を探るためである。函館での情報収集能力と分析の確かさが買われたのである。職務は「取り調べの事」。取り調べといっても、罪人を取り調べるのではなく、八方に多くの人に会って情報収集を行うのが任務であった。
実際、廣澤は多くの人から多くの刺激を受けた。薩摩と会津両藩による「八月十八日の政変」を生む薩会同盟の作成に携わったり、佐久間象山と交わり、同藩の山本覚馬と天皇遷座、江戸への遷都を謀議していたという。
廣澤は、会津藩のみならず、幕府中枢の公務にも携わるようになっていった。
新時代への挑戦


しかし、時代の流れは大政奉還、戊辰戦争へと続く。その後の会津藩のてん末は、多くの人の知るところである。その頃廣澤は、朝敵と名指された藩主のえん罪を訴えて江戸で投獄されていた。一年以上の投獄生活を強いられ、ようやく旧藩に戻ることになる。新政府から示された転封先の候補は、旧会津領の猪苗代と陸奥三郡であった。廣澤は可能性のある新天地を開くべきことを主張、かくて一万七千余人は、未開の地陸奥に踏み入ったのである。
陸奥での生活は辛酸を極めた。一年半で廃藩置県となり、陸奥から多くの人が去った。
それでも廣澤の頑張りは続く。
かつての知己を頼りに、新政府の産業振興援助金の貸付をとりつけ、明治5年(1872)5月27日、上北郡百石村谷地頭(現三沢市)の約2390haの土地に牛馬を飼い、牛乳や肉を売る日本初の洋式牧場「開牧社」を開設したのである。今でいうベンチャービジネスである。
英国人通訳ルセーと農夫マキノンを雇い、牛180頭、若干の馬・豚で始まった牧畜は、4年目には軌道に乗り始めていた。
明治9年(1876)、廣澤のもとを天皇巡行の供をした大久保利通がたずねている。大久保はかつて政敵であった薩摩藩の出身で、新政府では内務卿になっていた。
廣澤の人物を知る大久保は、官吏として国家に尽くすよう勧めたが、その時廣澤は「野にあって国家に尽くす」と断ったという話がある。牧場経営自体がすでに国の政策に合致し、廣澤自身も十分にその意義を見出していたのであった。
実用の学を実践


廣澤は鷹架沼地区に運河を通して貿易港・軍港を建設する構想をもって奔走(明治22年に内務省が実地測量したが、安任の死で構想は頓挫)するなど、この地の近代化に尽くした。
廣澤の挑戦はその後も続く。明治19年(1886)に、牧場の経営を東京駒場の農学校を卒業した養子の辨二に任せると、自分は東京の淀橋町(現在の伊勢丹付近)に牧場を開設し、牛乳や肉の販売を始めた。文明開化で牛鍋がはやり出した頃でもあり、事業はうまくいったという。
明治24年(1891)にこの世を去るまで、廣澤は旧会津の遺臣として、斗南の地で救民に尽力した。近代牧場の経営は、かつて学んだ実用の学を実践したひとつの形だったのである。
平成7年10月、かつて開牧社があった場所に斗南藩記念観光村が完成した。安任ゆかりの品々を展示した「先人記念館」、廣澤邸を復元した「六十九種草堂」(六十九種の野草を第二回内国勧業博覧会に出品したことにちなむ)を中心に、斗南藩の歴史を学べる施設となっている。

 
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