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世界初の太平洋無着陸横断に成功した冒険野郎
ミス・ビードル号の挑戦


昭和2(1927)年、リンドバーグがニューヨーク〜パリ間の大西洋無着陸横断に成功、その二年後にドイツのツェッペリン伯飛行船が世界一周20日と4時間という新記録を樹立。世界の飛行家の関心は、太平洋の無着陸横断と世界一周早まわり記録の更新に集まっていた。
昭和6(1931)年10月4日午前7時、ミスビードル号が三沢村の淋代海岸から太平洋無着陸横断を目指して飛び立った。飛行家の名はパングボーンとハーンドン。41時間後、機体はワシントン州ウエナッチ市に胴体着陸に成功、二人は歴史上の人物となった。
パングボーンは陸軍飛行学校の教官であったが、その後は飛行サーカス団に所属し、ニューヨークの摩天楼の間を縫いながら飛行機から飛行機へ飛び移りという曲芸飛行を披露するなど、パイロットとしての腕は一流であった。一方のハーンドンはニューヨークの裕福な実業家の家に生まれた。父親はもちろんハーンドン自身も紳士録に登録されるというお坊ちゃまだった。
おおよそ似つかわしくない二人の出会いは、飛行サーカス団に所属していたバングボーンが79時間の長時間飛行記録を樹立した際、ハーンドンが空中給油を行って支援した時からだった。意気投合した二人は、ハーンドン家の出資で世界一周飛行会社を設立、最新鋭機を購入したのであった。
二人の目標は、世界一周早まわり記録の更新であった。ところが、途中ソ連のハバロフスクで事故に遭い計画を断念、彼の地で日本の朝日新聞社が太平洋無着陸横断飛行に2万5千ドルの賞金をかけていることを知り、急きょ計画を切り替えての挑戦であった。
まず、二人は準備のために日本へ向かった。しかし、日本からの着陸許可を得ずに飛び立った二人を迎えたのは、不法入国、航空法違反。それに、途中で海岸線沿いを撮影したフィルムが発見されスパイの嫌疑もかけられた。
一時は日米の外交交渉にまで発展したが、結局罰金刑で決着。二人にとっては、借金を抱えての挑戦となった。しかも、機体の改造は許可されず、離陸は一回限りという厳しい条件もつけられた。
しかし、アメリカ西海岸までの4,500マイルを飛ぶには燃料が足りない。このため、パングボーンは極秘に燃料タンクの増設を行った。さらに、離陸後、車輪をはずせるようにも改造した。空気抵抗が減れば、それだけで600マイルが節約できる計算だったのである。
しかし、三沢村の人々にはそんなことは関係なかった。世紀の偉業の出発点に淋代海岸が選ばれたことに無上の喜びを感じ、小比類巻村長を先頭に宿舎の提供や滑走路の造成、ガソリンの積み込み、夜間の機体の見張りなど、援助を惜しまなかったのである。
アメリカとの交流のはじまり


世界的偉業の立役者となったミスビードル号であったが、機体は現存しない。その後、第三者に売却され、大西洋をイタリアに向けて飛行中に消息を絶ったのである。現在は、わずかに着陸当時にねじ曲がったプロペラがウエナッチ市の博物館に展示されているのみである。
この横断飛行には後日談がある。「日本からのお土産はこれだけ」といって、パングボーンがとり出したものは、何とリンゴだった。三沢で機内食用に積み込まれた紅玉リンゴが5個残っていたのである。このリンゴはアルコール漬けにされ、長く博物館に保存されていたというが、現存していない。
三沢がリンゴの産地であることを知ったウエナッチの人々が、さっそくアメリカ産のリチャードデリシャスというリンゴを2箱送ったが、このリンゴは横浜港で陸揚げ禁止処分となった。これを残念に思った青森県のリンゴ試験場が接ぎ木用の枝の提供を依頼し、青森リンゴの品種改良に役立てたというのである。

 
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